差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
2 バイト除去 、 2013年8月26日 (月) 09:55
78行目: 78行目:  
*司馬懿は中国後漢末期から三国時代における魏・晋の武将・政治家。字は仲達。(179~251)
 
*司馬懿は中国後漢末期から三国時代における魏・晋の武将・政治家。字は仲達。(179~251)
 
**'''三国志における真の勝者であり、曹操や劉備と並び称される英傑である。'''
 
**'''三国志における真の勝者であり、曹操や劉備と並び称される英傑である。'''
*曹操には重視されなかったが、曹丕からは重視される事となり、漢中への侵攻を繰り返す孔明の蜀軍を食い止め続けた。
+
*曹操には重視されなかったが、曹丕からは重視される事となり、漢中への侵攻を繰り返す孔明の蜀軍を食い止め続けた。西暦249年、息子の司馬師や司馬昭と共にクーデターを起こして魏の実権を握るが、251年に死去する。後年、西晋を起こした孫の司馬炎より高祖宣帝と追号される。
 
**ちなみに、曹操は重視しなかったが司馬懿の才覚を見出して登用したのは曹操である。その理由は「大志と野望を持つ」を警戒されていた。
 
**ちなみに、曹操は重視しなかったが司馬懿の才覚を見出して登用したのは曹操である。その理由は「大志と野望を持つ」を警戒されていた。
 
*日本では『三国志演義』の影響で孔明より格下に見られがちだが、上述の通り孔明の侵攻を食い止め続けた……すなわち孔明には常に勝利している。
 
*日本では『三国志演義』の影響で孔明より格下に見られがちだが、上述の通り孔明の侵攻を食い止め続けた……すなわち孔明には常に勝利している。
 
**孔明の死後、整然と撤退する蜀軍に付け入る隙を見出せずに退いた事で'''「死せる孔明、生ける仲達を走らす」'''という故事が生まれたのは事実だが、これだけで司馬懿の才覚を決められるものではない。
 
**孔明の死後、整然と撤退する蜀軍に付け入る隙を見出せずに退いた事で'''「死せる孔明、生ける仲達を走らす」'''という故事が生まれたのは事実だが、これだけで司馬懿の才覚を決められるものではない。
*西暦249年、息子の司馬師や司馬昭と共にクーデターを起こして魏の実権を握るが、251年に死去する。後年、西晋を起こした孫の司馬炎より高祖宣帝と追号される。
   
*実は恐妻家で、妻(張春華)には頭が上がらなかったらしいことが歴史書に記されている。
 
*実は恐妻家で、妻(張春華)には頭が上がらなかったらしいことが歴史書に記されている。
 
**西晋の歴史書『晋書』によれば、病気の見舞いに来た妻を(夫婦喧嘩の最中だったので)門前払いした所、これに憤慨した彼女は断食を行って抗議・・・・・・いわゆる、ハンガーストライキを決行した。これに驚いた司馬懿は妻に平謝り(全面降伏)して事態を収めたとのこと。なお、息子の司馬師や司馬昭も母と共にハンストをやったというから、家庭では奥さんの方が上であったのは一目瞭然である。ちなみに、彼女達が行ったハンストが記録に残る世界最初のハンストだと言われる。
 
**西晋の歴史書『晋書』によれば、病気の見舞いに来た妻を(夫婦喧嘩の最中だったので)門前払いした所、これに憤慨した彼女は断食を行って抗議・・・・・・いわゆる、ハンガーストライキを決行した。これに驚いた司馬懿は妻に平謝り(全面降伏)して事態を収めたとのこと。なお、息子の司馬師や司馬昭も母と共にハンストをやったというから、家庭では奥さんの方が上であったのは一目瞭然である。ちなみに、彼女達が行ったハンストが記録に残る世界最初のハンストだと言われる。
匿名利用者

案内メニュー