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63 バイト追加 、 2018年12月26日 (水) 21:54
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*司馬懿は中国後漢末期から三国時代における魏の武将・政治家。字は仲達。(179~251)
 
*司馬懿は中国後漢末期から三国時代における魏の武将・政治家。字は仲達。(179~251)
 
**'''三国志における真の勝者であり、曹操や劉備と並び称される英傑である。'''
 
**'''三国志における真の勝者であり、曹操や劉備と並び称される英傑である。'''
*曹操には重用されなかったが、曹丕の立太子を支持したことで彼の信任を得る事となり、漢中から侵攻を繰り返す孔明の蜀軍に何度か敗北を喫しながらも、持久戦の構えを取って蜀軍を食い止め続けた。西暦249年、息子の司馬師や司馬昭と共にクーデターを起こして政敵を排除し魏の実権を握るが、251年に死去する。後年、西晋を起こした孫の司馬炎より高祖宣帝と追号される。
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*曹操には重用されなかったが、曹丕の立太子を支持したことで彼の寵愛を得る事となり、後を継いだ曹叡からも信頼され蜀との戦いを任される。漢中から侵攻を繰り返す孔明の蜀軍に何度か敗北を喫しながらも、持久戦の構えを取って蜀軍を食い止め続けた。西暦249年、息子の司馬師や司馬昭と共にクーデターを起こして政敵を排除し魏の実権を握るが、251年に死去する。後年、西晋を起こした孫の司馬炎より高祖宣帝と追号される。
 
**ちなみに重用しなかったとはいえ、司馬懿の才覚を見出して登用したのは曹操である。重用しなかった理由は「大志と野望を持つ」と警戒されていたため。
 
**ちなみに重用しなかったとはいえ、司馬懿の才覚を見出して登用したのは曹操である。重用しなかった理由は「大志と野望を持つ」と警戒されていたため。
 
***さらに、若き日の曹操を洛陽北部尉に推挙し、世に出る切欠を作ったのは彼の父、司馬防である。つまり曹操にとっては恩人の息子である。
 
***さらに、若き日の曹操を洛陽北部尉に推挙し、世に出る切欠を作ったのは彼の父、司馬防である。つまり曹操にとっては恩人の息子である。
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**孔明の死後、整然と撤退する蜀軍に付け入る隙を見出せずに退いた事で'''「死せる孔明、生ける仲達を走らす」'''という故事が生まれたのは事実だが、「防衛すれば勝ち」の情勢で防衛しきった司馬懿の才覚をこれだけで決められるものではない。(後に人々が上記のことを言ったときにも、司馬懿は『生きている者の相手をするのは得意だが、死者の相手をする方法は知らないな』と平然としていたという)
 
**孔明の死後、整然と撤退する蜀軍に付け入る隙を見出せずに退いた事で'''「死せる孔明、生ける仲達を走らす」'''という故事が生まれたのは事実だが、「防衛すれば勝ち」の情勢で防衛しきった司馬懿の才覚をこれだけで決められるものではない。(後に人々が上記のことを言ったときにも、司馬懿は『生きている者の相手をするのは得意だが、死者の相手をする方法は知らないな』と平然としていたという)
 
***息子である司馬師・司馬昭兄弟の業績と共に、曹操が織田信長に喩えられることもあり、徳川家康にオーバーラップされて語られることから、「恩ある主君の家を乗っ取った野心家」と見られることも多い。
 
***息子である司馬師・司馬昭兄弟の業績と共に、曹操が織田信長に喩えられることもあり、徳川家康にオーバーラップされて語られることから、「恩ある主君の家を乗っ取った野心家」と見られることも多い。
**史実では軍師というよりは政治家寄りな孔明だが、一方で史実の司馬懿は軍人寄りの人物としても活躍しており、遼東で起こった公孫淵の反乱を迅速かつ巧みに討伐している。
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**史実では軍師というよりは政治家寄りな孔明だが、一方で史実の司馬懿は軍人寄りの人物としても活躍しており、孟達や公孫淵の反乱を迅速かつ巧みに討伐している。
 
*正妻の張春華との夫婦仲はあまり良くなかったと思われる記述が歴史書に記されている。
 
*正妻の張春華との夫婦仲はあまり良くなかったと思われる記述が歴史書に記されている。
 
**西晋の歴史書『晋書』によれば、病気の見舞いに来た妻を(夫婦喧嘩の最中だったので)門前払いした所、これに憤慨した彼女は息子の司馬師と司馬昭と共に断食を行って抗議……いわゆる、ハンガーストライキを決行した。これに驚いた司馬懿は妻に謝罪して事態を収めたとのこと。ちなみに、彼女達が行ったハンストが記録に残る世界最初のハンストだと言われる。
 
**西晋の歴史書『晋書』によれば、病気の見舞いに来た妻を(夫婦喧嘩の最中だったので)門前払いした所、これに憤慨した彼女は息子の司馬師と司馬昭と共に断食を行って抗議……いわゆる、ハンガーストライキを決行した。これに驚いた司馬懿は妻に謝罪して事態を収めたとのこと。ちなみに、彼女達が行ったハンストが記録に残る世界最初のハンストだと言われる。
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