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*曹操には重視されなかったが、曹丕の立太子を支持したことで彼から重用される事となり、漢中から侵攻を繰り返す孔明の蜀軍に何度か敗北を喫しながらも、持久戦の構えを取って蜀軍を食い止め続けた。西暦249年、息子の司馬師や司馬昭と共にクーデターを起こして政敵を排除し魏の実権を握るが、251年に死去する。後年、西晋を起こした孫の司馬炎より高祖宣帝と追号される。
 
*曹操には重視されなかったが、曹丕の立太子を支持したことで彼から重用される事となり、漢中から侵攻を繰り返す孔明の蜀軍に何度か敗北を喫しながらも、持久戦の構えを取って蜀軍を食い止め続けた。西暦249年、息子の司馬師や司馬昭と共にクーデターを起こして政敵を排除し魏の実権を握るが、251年に死去する。後年、西晋を起こした孫の司馬炎より高祖宣帝と追号される。
 
**ちなみに、曹操は重視しなかったとはいえ、司馬懿の才覚を見出して登用したのは曹操である。重用しなかった理由は「大志と野望を持つ」と警戒されていたため。
 
**ちなみに、曹操は重視しなかったとはいえ、司馬懿の才覚を見出して登用したのは曹操である。重用しなかった理由は「大志と野望を持つ」と警戒されていたため。
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***さらに、若き日の曹操を洛陽北部尉に推挙し、世に出る切欠を作ったのは彼の父、司馬防である。つまり曹操にとっては恩人の息子である。
 
*日本では『三国志演義』の影響で孔明より格下に見られがちで、実際に局地戦では何度か敗北を喫しているものの、大局的には防衛に徹して諸葛亮の侵攻そのものは食い止め続けた。
 
*日本では『三国志演義』の影響で孔明より格下に見られがちで、実際に局地戦では何度か敗北を喫しているものの、大局的には防衛に徹して諸葛亮の侵攻そのものは食い止め続けた。
 
**孔明の死後、整然と撤退する蜀軍に付け入る隙を見出せずに退いた事で'''「死せる孔明、生ける仲達を走らす」'''という故事が生まれたのは事実だが、「防衛すれば勝ち」の情勢で防衛しきった司馬懿の才覚をこれだけで決められるものではない。
 
**孔明の死後、整然と撤退する蜀軍に付け入る隙を見出せずに退いた事で'''「死せる孔明、生ける仲達を走らす」'''という故事が生まれたのは事実だが、「防衛すれば勝ち」の情勢で防衛しきった司馬懿の才覚をこれだけで決められるものではない。
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